雨が降る。
あたしは裏路地の軒下に座り込んでいた。
完全に雨を防げるわけもなく、あたしはずぶ濡れだった。
温かくなったとはいえ、雨に濡れると寒さに震える。
昔はよくこうして震えてたっけな。
そんなことをぼんやりと思う。
生まれ育った国では、親戚中をたらいまわしにされた。そりゃそうだ。黒髪、黒い瞳が普通の国で、赤い髪に赤と銀の瞳。こんな異様な姿、受け入れられるわけがない。鬼子と呼ばれ、みんながあたしを気持ち悪がった。
それでもあたしは頑張って生きた。
よく同じ夢を見たんだ。すごく温かくて優しい手が、あたしの頭を撫でてくれる。相手は誰だかわからない。すごく優しくて、あたしのことを受け入れてくれる。もう大丈夫だよって言ってくれる。そんな夢だ。
きっとこれは自分の未来なんだ。きっと幸せな未来が来る。そう信じて、今までずっと生きてきた。きっと出会えるはずだと信じて。
だけど――。
膝を抱えなおす。
と、足が見えた。
顔を上げると、あたしと同じようにずぶ濡れのレイ様。
何でだよ。何で、あたしなんかのために――。
レイ様は無言であたしの隣に座る。同じように膝を抱えて。
雨音だけが鳴り響く。
「わんこを飼おうと思ったの」
突然、レイ様がそんなことを言った。
「いーんじゃないんですか。豪邸に住んでるんだし、番犬ぐらい居た方がいいですよ」
あたしは膝を抱えたまま答える。視線は地面を見つめたまま。
「捨て犬でね、もう見つけてある」
「へぇ、良かったじゃないですか」
「うん。人懐っこくて、すごく可愛い。頭を撫でると、尻尾をいっぱい振って喜ぶ。でも、なかなか住みついてくれない。私達に遠慮して、迷惑なんじゃないかって思って、家族になろうとしてくれない」
「へぇ、そんな賢い犬もいるんですね。犬の癖に気遣いができるなんて」
「うん、賢い。思ってた以上に賢くてびっくりした。賢すぎて余計な気を回しすぎる。どうやったらうちに来てくれると思う?」
「いや、あたしに訊かれましても……」
「そう、残念」
本当に残念そうにつぶやくと、レイ様は少しだけあたしに寄りかかってきた。
「どうやったらうちに来てくれるんだろう」
「レイ様に飼われる犬は幸せですね」
「そうだったらいいなぁ……」
「そうですよ。だってレイ様もイク様も優しいから」
「そんなことない。優しいのはマヨだよ」
「どこがですか」
「マヨは優しいよ?」
「やめてください」
「優しくなかったら、罪悪感なんて抱かない」
「違う!」
反射的に怒鳴っていた。
何でこんなに不安定なのか自分でもわからない。心がざわついて仕方がない。
止まらなかった。
レイ様に言ったってどうしようもないのに。
何でこんなにむしゃくしゃするんだ。
「他人のことなんか知ったことじゃない!」
ひとつ溢れ出すと、止めどなく次から次へと溢れ出して、もう止まらなかった。もう自分ではどうにも出来なかった。
「あたしには関係ない!他の奴がどうなろうが、どうでもいい!」
「うん」
「そうやって生きてきたんだ!」
「うん」
「あたしが悪いんじゃない!」
「うん」
「だって仕方ないだろ!他に道なんてなかったんだ!他にやり方なんて知らなかったんだ!」
「うん」
「ガキがたった一人で何ができるってんだよ!」
「うん」
あたしのめちゃくちゃな感情を、レイ様はひとつひとつしっかりと受け止め、頷いてくれる。ちゃんとあたしの目を見て。
だから――
「しょうがないだろ!誰も助けてなんてくれなかった!」
だから――、本当は、気づいてた。わかってて、見ないふりしてたんだ。
しょうがない?
本当に?
他人を傷つけるのがしょうがないのか?
「そうしなきゃ生きていけなかったんだ!」
そうしなきゃ生きていけないようにしたのは、あたし自身だ。あたし自身なんだよ。
めちゃくちゃだ。本当に、めちゃくちゃだ。
「あたしが……!」
悪いんじゃない?
違う。
同じなんだ、あいつらと。
言い訳だ。全部。
生きるためだったら仕方ない。
じゃあ、理不尽に踏みにじられた人達は?
彼らも生きるために必死だったのではないのか?
すっと頭の中が冷静になっていく。ばらばらだった感情が、纏まっていく。
何でこんなにも胸が締め付けられるのか、わかった。今はちゃんと見つめられる。
虐げられて生きてきたのに、その痛みは誰よりも知っていたはずなのに、どうしてあたしは同じように他者を踏みにじってきたんだろう。どうして守ってやれなかったんだ。
自分が苦しいからといって、他人のものを奪っていい道理などないはずなのに。
「あたしはっ……!」
本当に馬鹿だ。
今更、どうしろっていうんだよ。
「よしよし」
温かくて、優しくて、すぐには状況が理解できなかった。
レイ様があたしの頭を撫でてくれる。
一気に涙腺が緩む。
「……やめてください。どうしてですか。あたしに構うと碌なことないですよ」
「マヨが時々寂しそうな目をするから」
「そんなっ……こと、ないです」
「だから、放っておけない」
「違います。あたしはっ……」
それが欲しかった。
レイ様の言うとおりだ。
欲しくて欲しくてたまらなかった。温かい団欒。渇望していた。無意識のうちに、そんな目で見つめていたのだろう。
でも、それを遠ざけていたのは紛れも無くあたし自身だ。身に降りかかる不幸なんて言い訳にしかならない。
あたしの生き方が悪かったんだ。願いながらも今まで手に出来なかったのは、多くのものを踏みにじって、顧みなかったから。自分で、手に入れられたかもしれない温かい未来をぶち壊したんだ。
「よしよし。貴女の本当の名前は何?」
「……ないです」
名前も無ければ、当然戸籍もない。物心ついた時から、いろんな人にたらいまわしにされていた。名前も、その時々で変わっていった。
胸を張って名乗れるほどの名前なんてない。
「赤毛、赤鬼……いろんな名前で呼ばれました」
「じゃあやっぱりマヨだ。貴女の名前はマヨ。私が名づけた」
「でもっ……」
あたしにはそれを受ける資格がない。
「マヨはもっと頼ってもいいんだよ。差し伸べられた手を掴んでもいいんだよ。今までずっとがんばってきたんだから」
よしよし、と優しく頭を撫でてくれる。
あたしは零れ落ちそうな涙を必死にこらえる。
もっと早くにこの人達と出会っていたら、違っていただろうか。
変われただろうか。
でも、もう遅い。
あたしは――。
「いたいた!」
雨音を遮るかのような声。甲高い子供の声だから、よく響く。
知っている声だった。
視線をやると、そこにはイツカが。
なんであいつまで。
あたしは慌てて涙を拭う。
イツカはあたしを睨みつけると、派手に地面を踏みつけながら近づいてくる。
そして。
「ん!」
手に持っていたもう一本の傘を、あたしに差し出す。
「え?」
「え?じゃない!お前、黙って出て行くつもりだったのかよ!」
だんだんと地団太を踏む。
「せっかくいっぱい料理作って待ってたんだぞ!お前以外あんないっぱい誰が食べるんだよ!明日の献立だってちゃんと考えてあるんだぞ!」
少しばかり涙目で訴えてくる。
イツカには申し訳ないが、ちょっとばかし笑えた。
「それに、お前早く帰ってカガをどうにかしろよ!人間如きに撒かれたってめちゃくちゃ落ち込んでて鬱陶しいんだよ!」
それもなんだかちょっと笑えた。カガには申し訳ないけど。
「お迎えが来たし、帰ろうマヨ」
レイ様があたしの手を握る。
あたしは、今度はそれを振り払わなかった。
振り払えなかった。
少しだけ、甘えさせて欲しかった。
レイ様にしっかり手を握られ、イツカにはさんざん文句をぶちまけられ、家路に着く。
何のしがらみもなく、こうやって家に帰れたらどんなに良かっただろうか。
でも、もう遅いんだ。
あたしはもう戻れない。
清算をしなきゃいけないんだ。