二人は車を降りた。
目の前には、巨大な塀。高くそびえ立つコンクリートの壁がはるか遠くにまで続いている。アビーの視力では、その果ては見えない。
「こんな近くまで来たのは初めてです」
鼓動がいつもより早いのは気のせいではない。やはり威圧感がとてつもないのだ。
仕方が無い。臆病な魔女が、凶悪な妖魔や人を閉じ込める最強の監獄前まで来たこと自体、褒めてしかるべきだろう。
知らず知らずのうちに後ずさりしていると、シュガが声をかけた。
「さあ、中に入りましょう」
「えっ!?中に入るんですか!?」
「ええ、そうですよ?中に入らないとわからないじゃないですか」
「えっ、でも、中には凶悪な妖魔や人がいっぱいいて……き、危険じゃないですか?」
「ラクシ様も部下の方たちも、この中で普通に暮らしていますよ?」
「無理!無理です!私なんかがこの中で生活できるわけないじゃないですか!」
「居住区にはちゃんと安全が確保されていますよ。大丈夫です」
「大丈夫じゃないです!私はただの魔女ですよ!?恐がりの、てんでダメな弱い魔女ですよ!?」
「貴女は自分で思っているほど弱くはないですよ?その証拠に、長年私の傍で働いてくれているじゃないですか」
「それはシュガ様だからですよ!」
「そうですか?同じだと思いますよ?」
「全然違いますよ~……」
がっくりと肩を落とす。
おそらく、この議題について100年語り合ったところで分かり合えないだろう。強者は弱者の気持ちがわからない。勇猛果敢な者は、臆病者の気持ちが理解できない。
先ほどシュガ自身が、力の差がありすぎて認識を統一できないと言っていたが、それがこれだろう。
力の弱いアビーは、シュガだからこそ傍にいたところで悪影響を受けない。シュガは自分を厳しく律することができ、自分の力についてもよくわかっている。それが信頼となり、安心に繋がる。
戦闘能力を一切持たないアビーにとって、他者は全て脅威だ。何かあった際、対処ができない。逃げることすらかなわない。やられるしかないのだ。だからより一層臆病になる。
他者からの侵略を一切受けることのない、むしろ他者を服従させてしまえるほどの力を持つシュガは、アビーの本質は理解できないだろう。
現に、シュガはアビーがなぜそこまで恐れているのかよくわからず、小首を傾げている。
「無理に、とは言いませんけど、どうしますか?」
俯くアビーの表情を覗き込むようにして尋ねる。
「うう……せっかくここまで来たし……」
「私が傍にいますので、大丈夫ですよ。何かあった時、必ず守りますから」
傍にシュガがいる。その信頼は揺るぎない。
意を決して顔を上げたその時。
「シュガ様じゃないですか」
大きな声に、思わずアビーは身体を震わせて、ひゃっ、と奇妙な声をあげてしまっていた。
変に思われなかっただろうか。恐る恐る振り返ると、大きな声の主はたいして気にした様子もなく、快活な笑みでアビーを見つめていた。
姿形は東洋人のような青年だが、人間ではないとはっきりとわかる。目が違う。瞳が人間のそれとは違い長細く、真っ白だった。笑顔の口元からちらりと見える歯は鋭く、舌は血のように赤い。
「何か御用ですか?」
よほど珍しかったのだろう。好奇の目で、上から下までアビーをじっくりと観察している。
「ラタナ、あまりじろじろ見るのは失礼ですよ」
シュガが咎めると、彼はようやくアビーが怯えていることに気がついたようで、慌てて頭を下げた。
「おっと、こりゃ申し訳ない。しかも初対面のお嬢さんに大変失礼しました」
見た目は少々恐ろしいが、中身はそれほどでもないのかもしれないとアビーは思った。
どうやらシュガの知り合いでもあるようだし、危険はない。そう頭の中ではわかっているのだが、やはり身体は緊張してしまっている。それだけ彼が力を持った妖魔だということでもある。
「それで、今日は一体どういった御用で?お頭は今日はつかまるかわかんないですよ」
目の前にいるガチガチのアビーをさして気にせず、シュガに問いかける。
人型をとってはいるが、どうやら人間ほど細やかな気遣いはできないようだ。
「以前から話が持ちあがっていたでしょう?ラクシ様の補佐官の件です。その候補者を連れて来ました」
「ほう」
初めから笑みを絶やしていなかったが、ラタナはより一層太陽を照らしたような明るい笑顔を浮かべた。
「これはこれは。こんな可愛らしいお嬢さんが来てくれるのか。こりゃ楽しみだ」
影で暮らし闇を好む妖魔とは思えぬ明るさで、彼は笑った。
まったく敵意はない。むしろ好意を感じるはずなのだが、臆病なアビーは彼に見られるだけで身体がこわばってしまう。
固まって動かないアビーに、ラタナは首を捻る。そして、おーい、と反応のないアビーに触れようと手を伸ばした。
「この子は大人しいし、恐がりなのですよ」
シュガはラタナの手を掴み、制止する。それから、ラタナとアビーの間に割って入った。
「ありゃりゃ、恐がられましたか?俺の見た目、そんなにまずいですかね?」
「まずくはないです。ただ貴方の力が周囲に漏れているので、緊張してしまったのでしょう」
シュガが間に立ってくれたおかげで、ようやく身体が動くようになった。やはりシュガが与える安心感はすさまじいものがある。動くとなると、アビーはさっとシュガの後ろに隠れた。
「ありゃ~……嫌われちゃいましたかね?うちに来てくれなくなっちゃいます?」
「そもそも見学しに来ただけで、補佐官の話は決定していません」
シュガがきっぱりと否定をしてくれたため、いくらかアビーの心が楽になった。やっていけないと判断してそれをシュガに話せば、きっちり先方に伝えてくれるだろう。
シュガの背中から少し身を出し、ラタナを窺う。
先ほどシュガに注意されたからか、周囲に溢れ出ていたラタナの力がかなり小さくなっていた。
まだ恐怖は完全に拭いきれないが、これなら大丈夫そうだ。アビーは完全にシュガの背中から出て、その隣に並ぶ。
「まだまだ挽回のチャンス、あります?」
「ええ、もちろんですよ」
頷くシュガを見て、ラタナは再び明るい笑顔を浮かべた。
「よっしゃ。それならはりきって案内しちゃおうか。うちはいつでも誰でも大歓迎なんです。他の連中だってきっと大歓迎してくれますよ」
どうやらシュガが言っていた「第四区域はいつでも誰でもウェルカム」という言葉は本当のようだ。
「あ、そうだ自己紹介。俺はラタナって言います。守衛やってます。どうぞ気軽にラタナって呼び捨てにしてください」
無理です、と即座に答えそうになったが、なんとか押しとどめた。
こんな力の強い妖魔を呼び捨てにする度胸などアビーにはない。
「あの、アビーと申します。よろしくお願いします」
緊張してはっきりとした声は出なかったが、ぺこりと頭を下げた。それを見て、ラタナもぺこりと頭を下げる。
野蛮ではないようだ。ラタナの印象が上方修正される。
「こんなところで立ち話もなんなんで、どうぞ中へお入りください」
「えっ!?やっぱり中に入るんですか!?」
アビーが後ずさる。
「そりゃ、俺達の居住区は中にありますんで」
「で、でも、中には凶悪な妖魔や人間がいっぱいいて……」
「ああ、それなら大丈夫ですよ。居住区とそういう連中との棲家はきっちり別れてますし、奴らを出さないためにも俺達が中で見張ってます。それに万が一、見張りの奴らを振り切って襲い掛かってきたとしても俺が居ます。仲間だっていっぱいいます。奴らに何かなんて出来やしません」
危険でも何でもないふうにさらりと断定されてしまっては、アビーも返す言葉がなかった。
「さ、どうぞこちらへ」
ラタナが先頭に立ち、中へと導く。アビーはシュガに寄り添うようにしてついて行った。
コンクリートの壁にある唯一の区切り。分厚い鉄の扉だ。
守衛なのだろう、その扉の前に一人、周囲を見張っているものがいた。それは人型ではなく、獣型だった。腰を下ろしてはいるが、背筋はすっと伸び、鋭い目つきで周囲を警戒している。やはりラタナと同じように、非常に力の強い妖魔だということが見て取れた。
その妖魔がアビー達の姿を認めると、ふと優しい目つきに変わり、小さく会釈した。
アビーは深々と頭を下げて返す。
ここにいるもの達は力は強いが、野蛮でも粗暴でもないという認識が強まると、急激に恐怖が薄らいでいった。
「ようこそ第四区域へ」
ラタナが鉄の扉を開ける。
ギギギ、と重苦しい音がした。
扉の中はどんな牢獄なのだろうかと思ったが、目に入った景色はたいして外と変わりはなかった。
街路樹や花壇など、意外にもちゃんと整備されている。
入ってすぐに大きな建物が待ち構えていた。二階建ての、酷く横に長い建物だった。果ては見えるが、大層大きい。
ラタナはその建物へと進んで行く。シュガもあたりを気にする様子もなくその後をついて行く。アビーだけが、きょろきょろとあたりを見回し、おっかなびっくりシュガの傍をついて歩く。
ただ、いくら警戒していようと、目に入る景色に危険は無かった。喧騒は一切聞こえない。悲鳴も銃声も、爆発音も、そんなものとは無縁のような穏やかな風景。他の区域の方が治安が悪く見える。
「どうぞどうぞ」
開け放たれたままの扉へと、ラタナが促す。
アビーは不思議とためらうことはなかった。
ラタナが案内しようと先頭に立った矢先、シュガが言った。
「いつもの部屋に案内してくださいね」
「えっ、ええっ?談話室ですかぁ?」
ラタナは眉をひそめた。
シュガは頷く。
「そうです。いつもの風景を見せてもらわなければ、アビーもここでやっていけるかどうか判断できません」
「えー……?しかしなぁ……」
ラタナはアビーを見て、表情を曇らせる。
「何も知らせないで取り込んでも、後で逃げられるだけですよ?」
ラタナは腕を組み、数秒考え込む。そして。
「よし、わかった。それもそうっすね。仲間になってくれるかもしれないんだし、嘘はよくない。こっちです」
案内されるまま、アビーはついて行った。
床は板張りで、壁は白く、長く続く一直線の廊下に添うように各部屋がある。
アビーは、外の世界の学校を連想させるようだと思った。
時折すれ違う妖魔や人間は、にこやかな笑顔で頭を下げてあいさつする。もっとも、その笑顔にはアビーへの好奇心が込められてはいるが、睨みつけられるよりよほどいい。みんな気持ちいいぐらいに明るくアビー達に頭を下げた。
ラクシの教育が行き届いているというのは本当のようだ。アビーはさらに第四区域のイメージを改めた。しかし強力な妖魔をここまで躾けられるラクシに恐怖を感じるのは改められなかった。
進んで行くにつれ、なにやら騒がしい声が聞こえてくる。
そして一際うるさい部屋の前で立ち止まった。
ラタナが扉を開けると同時に言い放つ。
「おーい、お前らお客さんだ。丁重にもてなせ」
おおっ、という歓声。それから口々に、シュガ様だ、と歓迎の声。しかし、静かになる。その原因はわかっている。アビーだ。
そして次の瞬間。好奇心旺盛なのか、一斉にアビーに詰め寄る。思わずアビーは、ひっ、と短い悲鳴を上げた。
こうなることがわかっていたのか、ラタナが彼ら押しとどめる。その隙に、アビーはさっとシュガの背中に隠れた。
ラタナが渋った理由はこれだろう。彼らは底抜けに明るく、遠慮がない。臆病なアビーを再び恐がらせてしまい、挽回できなくなってしまうと考えたのだろう。
「こら、お前らちょっと落ち着け!離れろ!しっしっ!」
ラタナはこの第四区域では上の立場なのか、みながその言葉に従い、一定の距離を保った。離れはしたが、好奇の目は止まらない。
「その子誰っすか?」
「お客さん?お客さん?ねぇねぇ、お客さん来てくれたの?」
「何か飲みます?あ、酒なら今ここにありますよー」
「どこから来た?」
「何か食べる?」
「こっち座ってよ」
それぞれが勝手に言葉を放つ。
「やかましいぞ、お前ら。散れ。ちょっと散れ。それからお客さんに椅子だ。椅子を用意しろ」
ラタナが指示を出した直後、誰かが言った。
「あ、もしかして新しい補佐官さん?」
それに、おおー、と部屋中歓喜の声が響く。
「まだ決まっていませんよ。今日は見学です」
シュガがきっぱりと否定する。
やはりシュガ様は頼りになる。ああ、この人のもとで……以下略。
「どうぞ、こっちです」
椅子とテーブルの用意ができたようで、ラタナが促す。
椅子は安っぽかったが、それでもこの中から一番上等のものを選んだようだ。ただの木箱をひっくり返して椅子として使っている形跡もある。テーブルは綺麗に片付いていたが、他のテーブルの飲み物や食料の散乱ぶりを見ると、慌ててこのテーブルだけ片付けたようだった。
「おーいチビ、ちょっとお頭に伝えて来てくれ」
ラタナの指示に、子鬼が返事をして部屋を出て行った。
「相変わらず賑やかですね」
シュガが可笑しそうに言う。
アビーはすすめられるがままに椅子には座ったが、そのまま固まってしまっている。妖魔ばかり、しかも強力な妖魔だ。その中にたった一人、何の能力も持たない魔女。針のむしろだった。
ラタナはそんなアビーの様子に困り果てている。
「えーと、挽回のチャンス、まだあります?」
見ての通り、いかつい妖魔ばかりだ。女のような見た目の妖魔もいるが、中身は強力な妖魔。可愛げなどない。
そんな中に可愛らしいアビーが来てくれれば、どれほど華が咲き乱れることか。ラタナとて、この機会を逃すまいと必死なのだ。
「人見知りなだけですよ」
シュガがアビーの代わりに返事をする。ぎこちないながらも、それにアビーは頷いた。
強力な妖魔たちの視線を一身に受けているが、それは敵意ではなく好意だ。それはアビーにもよくわかっている。ただ、慣れていないため恐怖心が前面に出てしまうだけだ。頭の中では、彼らがシュガの言うとおり、陽気で気の良いもの達ということもわかっている。
結局、アビーが臆病というだけなのだ。
「どうぞ」
人型の妖魔が、恐る恐るシュガとアビーにコーヒーを出した。
その妖魔はこの中で一番人に近く、見た目も恐怖心を与えないものだ。アビーが恐がらないよう気を遣った結果、彼に白羽の矢が立ったのだろう。そして彼が恐る恐るなのは、アビーに嫌われることを恐れてだ。
コーヒーを出し終えると、彼はそそくさとその場から離れ、他の仲間達と同じように一定の距離を保ってアビーを見守る。
「ラクシ様を待っている間に、少しでもここのことを教えてください」
「はぁ」
シュガの言葉に、ラタナは困った様子で頭をかく。
「ここのことでもいいですし、貴方から見たラクシ様のことでもいいです。アビーの参考になることをどうか教えてください」
「んー……そうですね。ここの仕組みやらはお頭から直接聞いた方がいいでしょうし……よし、じゃあちょっくら昔話ってのはどうですか?俺とお頭の運命の出会い」
「……運命の出会い、ですか?」
アビーが聞き返す。
アビーが口を利いてくれたのが嬉しかったのか、ラタナに太陽のような笑顔が戻る。
「そうっす。運命としか言えないですね。こんな俺の話でもよければ、いくらでも話しますよ?」
アビーは即座に頷く。
ラクシのことを知るにはちょうど良い。それに、どうやってこれほど強力な妖魔を手なずけたのかも知りたかった。
「あの、よかったら是非話してください」
アビーの言葉にラタナは頷き、そして語りだした。