神社の守り人になった少年と、そこに住むあやかし達の交流を描いた和風ファンタジー。※完結済。
どこまで行っても霧がかっていて、すっきりと晴れない。
僕は左肩に家に住み着く白い烏を乗せ、右肩にまだ幼い春の神を乗せ、黙々と歩く。
しんと静まり返っているが、不気味ではない。僕の両肩に神が乗っているからだろうか、不安はなかった。
どこをどう来たのかは覚えていない。それでも僕の足取りはしっかりしている。
僕は物の怪たちが住み着くあの家に帰らなければならない。
だから迷子になどならない。もし迷子にでもなったりすれば、
後から伯父にしこたま説教され、姉には殴られ、
輔毅君には嫌味を言われるだろう。それだけは絶対に避けなければならない。そして僕のちっぽけな自尊心が、それを許さなかった。
それに、鳥居はよく見えている。霧の中、一切曇ることなく僕の目に映っている。
烏は言った。こちら側の世界の家に、両親は居ると。
僕は両親に会わなければならない。突如行方を晦ませた両親と会い、向き合わなければならない。
鳥居の前に来た。
鳥居の中から、僕の帰るべき家が見える。霧がかっていない。いつもの、あの家だ。
だが、鳥居から視線を外しても、僕の家がある。霧がかっていて、はっきりとは見えない家が。
鳥居の中をくぐったあの家が、僕ら人が住む世界。くぐらなくとも、同じ家がある。けれどもそれは、神や物の怪たちが住む、僕らとはまた違った世界。同じ場所に同じ空間があるが、それはおそらくまったく別の世界なのだろう。
ここに、両親がいる。
僕は鳥居をくぐらずに、霧がかってはっきりと見えない家に近づく。
池のそばを通った時、ぽちゃんと水音がした。見ると、あの物の怪がいた。
「こんなところで何をしている?」
魚と言うべきなのかどうか迷うが、姿形は一応魚に似ている。その物の怪が、しゃがれた声で話しかけた。
そうか。彼らはこちらの世界と僕らの住む世界を自由に行き来して生きているのか。
「さっさと帰れ」
一応心配してくれているのだろう。しかしまだ帰るわけにはいかない。
「大丈夫だよ」
僕はそう答えた。
物の怪は、ふん、と鼻を鳴らし、再び水面深くに姿を消した。
庭から縁側へと上がる。その際、床下から、どん、と叩かれた。床下に住み着く物の怪だ。
「うるさい。大丈夫だよ」
どん、と床を足で鳴らした。
周りを見ると、子鬼たちもこっそりと僕の様子を窺っている。
彼らは彼らなりに心配してくれているのだろうか。
物の怪たちはただそこにあるだけの存在だと思っていた。僕が居ても居なくなっても、彼らには関係が無いと思っていた。変わりなく、彼らはそこにいる。しかし、本当は違うのかもしれない。
僕が僕の世界に居ることを、彼らは望んでくれているのだろう。脆い繋がりだと思っていたけど、小さくとも実はそこにはっきりとした繋がりがある。
なんだか少し嬉しくなってしまった。
自分の帰るべき場所に帰るという思いが、より一層強固となった。
家の中も、霧がかかっていてはっきりと見えなかった。物の怪たち以外は。
僕は居間の襖を開ける。
見慣れたいつもの家だ。いつもの場所に机があり、箪笥がある。
中に入ると、机の上に料理が並べられていたのが見えた。
「あら、お客さん?」
声をかけられ、振り向くと、そこには母がいた。
もし再び会うことがあったなら、文句をたらふく浴びせてやろうと思っていたが、いざ目の前にすると何も口にできなかった。
「どうされました?」
母は、見慣れたあの微笑で、そう尋ねる。
神隠しにあった人間は、以前の記憶を全て忘れてしまっていることが多いと聞く。この人たちも、そうなのだろう。
「すみません。道に迷ってしまって。少し、休憩させてもらっても良いですか?」
僕は、そう返した。そう返すしかなかった。
「ええ、どうぞどうぞ。ちょうどお昼時なので、よかったら一緒にどうですか?たいしたおもてなしは出来ませんけど」
それから母は、僕の返事も聞かずにどこかへ行ってしまった。おそらく父を呼びに行ったのだろう。
人の話を最後まで聞かないのはいつもの悪い癖だ。
僕は、僕の席に座る。
部屋の中は、変わらず霧がかっていてよく見えない。
しばらくすると襖が開き、父を連れた母が戻ってきた。
久しぶりに見る父は、やはり見慣れたあの父だった。
「これはこれは、ようこそいらっしゃいました」
人懐っこい笑顔を見せる。
僕も、お邪魔してます、と笑みを見せ、頭を下げた。
父も、いつもの席に座る。
母は、僕の分の茶碗や箸の支度をする。
以前は当たり前だった光景だが、今は違う。この人達は、向こう側の世界のことを忘れてしまっているのだ。
「どちらまで行かれる予定なのですか?」
彼が、尋ねた。
「ここよりも、もっと遠いところへ」
僕はそう答えた。
「旅ですか?」
「ええ。いろいろと見聞を広めようと思いまして」
「お若いのに立派ですね」
彼女はそう言い、ご飯を盛った茶碗を僕の前に置く。
「それに、良い神を連れている」
彼は僕の両肩に止まる二匹を見て、言った。
「わかるんですか?」
「ええ、なんとなく。そちらの大きいほうの神は、君の守護神のようなものかな。お互いが良い影響を与えている」
僕は白い烏を見た。烏は何も返さない。
「ああ、そちらは春の神か」
手も触れず、見ただけで言い当てる。もしかしたら父は、優秀な神祇官だったのかもしれない。
「神になって間もないので、迷子になってしまったんです」
僕がそう言うと、春の神は、きゅう、と鳴いて頷いた。
「そうでしたか。それで貴方が?」
「ええ、連れ戻しに」
「ということは、神祇官の方ですか?」
「いえ、そういうわけではないんです。ただ、成り行きで」
「そうでしたか」
彼はそれ以上追及しなかった。
「さあ、どうぞ。召し上がってください」
彼女は勧める。彼は箸を持ち、料理を口に運ぶ。
僕は箸を取った。
烏が、僕の首をつつく。
わかっている。神祇官ではない僕でも、それぐらい知っている。こういう時は、食べてはいけないのだ。
古今東西、別の世界のものを口にしてしまっては元の世界に戻れなくなってしまうというのはお決まりごとだ。もちろん僕の住む世界はここではないのだから、食べる気などさらさら無い。おいしそうではあるが、食べるわけにはいかない。
二人は、料理を平らげていく。
僕はふと、尋ねてみたくなった。
「お二人は…」
二人とも、僕のほうを見る。
「ずいぶん立派な家ですが、ここで二人だけで暮らしているのですか?」
僕や姉のことなどすっかり忘れ、二人で楽しく暮らしているのだろうと思っていた。ところが二人は神妙な顔になり、考え込んでしまった。
「正直、わからないのです」
彼が答えた。
「なぜ、ここでこうしているのか。なぜ、ここでなければならないのか。私たちにはわからないのです」
二人とも、箸を置く。
「でも、なぜかここに居なきゃいけない気がするんです」
彼女はそう言った。
「誰かの帰りを待たなきゃいけないような、そんなような気がしてしまって、離れられないのです」
そうか。
僕は額を押さえる。
彼らは元の世界のことなどほとんど忘れてしまっていても、心に刻み込まれているものまではすっかり忘れ去ることなどできなかったのだ。
彼らは、僕ら子供たちを待っているのだ。帰ってくるのを、この家で。
「どうされました?気分でも悪いのですか?」
二人とも僕を心配そうに見つめる。
「大丈夫です」
僕は答えた。
「大丈夫」
笑みを見せる。
僕は箸を置く。
「すみません、僕はもう行かなければ」
僕はここの住人ではない。元の場所へ帰らなければならない。
二人は寂しそうな表情を浮かべる。
「もう行ってしまわれるのですか?もう少しゆっくりしていけば…」
彼が引き止めるが、僕は首を横に振る。
「すみません。あまり長居はできなくて」
「…そうですか。残念です」
本当に残念そうに、彼女が言った。
「初めて会ったのに、なぜだか君とは他人のような気がしない」
彼は僕を見て、そう言う。
「奇遇ですね。僕もです」
僕も彼を見て、返した。
「また、遊びに来てくれるかい?」
「ええ、必ず」
必ず。僕は心の中でもう一度つぶやく。今度は姉と共にここへ来よう。
今は、僕には何もできない。彼らを連れ帰そうとしても、彼らは拒否するだろう。だから次は姉と共に、彼らを連れ帰ることができるものを持って、ここを訪れよう。そして四人で帰ればいい。我が家へ。いつも通り、またあの家で。
僕は二人にお辞儀をする。
僕がここを去るとわかったのだろう。子鬼たちが、ひょこひょこと近寄ってきた。床下の物の怪も、気になったのか顔を覗かせる。ああ、こいつはこんな顔をしていたのか。初めて目にすることができた。
僕は庭へと下りる。二人は縁側まで僕を見送りに出てくれた。
「また遊びに来てくださいね」
彼女が言った。
「はい、必ず。約束します」
僕はそう答え、再び頭を下げると、背を向けた。
相変わらず霧のために周りの景色がわからない。だが不思議と鳥居だけはよく見える。帰り方は忘れていない。帰るべき場所のことも、忘れていない。
僕は鳥居に向かって歩き出す。
子鬼が後ろからついて来る。
霧立ち上る中、鳥居の向こう側だけははっきりと見える。
「さあ、帰ろうか」
物の怪たちに語りかける。返事はなかったけれど、彼らも同じ思いなのだと感じられた。
鳥居の向こう側へ踏み出す。
向こう側が、こちら側へ。
僕はいつもの我が家にいた。霧はもうない。振り返ってみても、鳥居の向こう側に霧は無く、見慣れたいつもの風景だ。
「速燈君」
輔毅君が駆け寄ってくる。
「どこ行ってたの?探してたんだよ」
そういえば、誰にも何も言わずにふらふらと出かけてしまっていた。
どうやらみんなに心配をかけていたようで、それは素直に反省する。
「ごめん、ちょっといろいろあって…」
「速燈!」
伯父が怒鳴る。
僕が鳥居の前にいるということ。
そして春の神が僕の肩に乗っているということ。これがどういうことか、
伯父にはすぐにわかったようだ。その様子を見て、
姉も輔毅君も悟ったのだろう。
「お前は何を…!」
無謀な行動への怒りと、しかし無事に帰ってきたという安堵に、伯父は上手く言葉を見つけられないようだった。
だから僕が先に言葉にした。
「伯父さんは知ってたの?お父さんとお母さんがここにいるってこと」
いつもは気丈な伯父が、この時ばかりは傷ついたような表情をした。
僕は責めているわけではない。誤解が生じてしまった。慌てて弁明する。
「違うんだ。僕は別に怒ってるわけじゃないんだ。簡単に連れ戻せないのはわかってる」
実際に、僕は両親に会ったけれども、置いてきたのだ。今の僕ではどうしようもできないから。
それはきっと伯父も同じなのだ。いや、僕以上に伯父は苦い思いをしてきたのだろう。神祇官で、ここの領主でもあるのに、自分の弟夫婦さえ救い出せない。
それが、痛いほどに遣る瀬無い。
「…会ったのか?」
伯父が問うた。
「うん。会えたよ。僕のことは覚えてなかったみたいだけど」
一同に悲しげな表情を浮かべる。
「でも、待ってるみたいだった。たぶん僕たちを待ってるんだよ。だから、また来るって約束した」
彼らのあるべき場所へ帰すために。
そのために、僕には成すべきことがある。
足元の子鬼たちと目があった。僕の足にしがみつき、僕を心配そうに見上げている。
僕が帰るべき場所を見失わなかったのは、彼らのおかげでもある。
僕は伯父を見る。
あれだけ嫌がって突っぱねてきたのだ。今更気恥ずかしい。だが、僕の心は決まったのだ。
「伯父さん。僕は神祇官になりたい」
子鬼たちが、わっ、と小さな声を上げ、ちりじりにどこかへ走り去って行った。他の物の怪たちに報告しに行ったのだろうか。僕が神祇官になることを喜んでくれたようで、それは思ってもいなかったために、僕もなんだか嬉しくなった。
僕は僕が思ってた以上に、ここに住む物の怪たちに好かれていたようだ。自意識過剰かもしれないが、そう思うことにした。
「決めたのか?」
「うん。決めた」
僕は物の怪たちと近い場所で生きていくことを、心に誓った。ここで、ここに住む物の怪たちに悩まされながら、僕は神祇官として生きていく。
僕の肩に乗っていた春の神が、きゅう、と鳴いた。そして、僕の肩から飛び立つ。はじめは頼りなくふらふらと、しかしやがて力強く翼を羽ばたかせる。風を切り、桜の木の周りをぐるぐると回る。
幼い春の神は、数周桜の上空を飛ぶと、遠い空のかなたへと消えていった。
桜の木は、幹を反らせ、枝を持ち上げ、大きく伸びをする。
つぼみが花開く。
春が、来たのだ。
終幕 春浅し<了>
あやかしの国、全十二幕、完結。
あやかしの国 あとがき を読む
あやかしの国 トップページへ戻る