あやかしの国

神社の守り人になった少年と、そこに住むあやかし達の交流を描いた和風ファンタジー。※完結済。

四の幕 あめなか


 朝は見事に晴れ渡っていたのだ。
 それが午後になると急に雲が増え、雨がぽつぽつ降り始めた。
 朝は晴れていたのだから、もちろん傘なんて持ってない。
 本格的に降り出した雨の中、僕は学校から帰ることを余儀なくされた。
 道がぬかるんでいて走りにくいうえに、雨の中だと呼吸がしにくい。
 僕は早々に諦め、走るのをやめた。
 どうせ走ったところで濡れることは回避できないのだから、初めから歩いて帰ればよかったのだ。
 無駄な体力を使ってしまったことを悔やみつつ、雨の中を歩く。
「ぼうや」
 角から急に呼びかけられ、驚いた。
 驚いた次に、ぼうやと言われたことに少々むっときた。
「何か?」
 睨み付けるように、その人を見る。
 赤い傘を差した、和服の女の人だ。
 傘のせいで顔が見えない。
「入っていくかい?」
 親切なのか、それとも何か企みでもあるのか。
 僕は物騒だと思ったので、
「いえ、結構です」
 と、断った。
「遠慮しなくていいよ」
「いえ、本当に結構ですので」
 僕にしては丁重に断り、その場から逃げるように家路を急いだ。
 やれやれ、妙な人がいるものだ。
 このあたりも物騒になってしまうのだろうか。
 僕がしたところで何も変わることのない心配を勝手にしつつ、雨の中を歩く。
 そろそろ濡れていることも気にならなくなってきた。
 しかし、気づいてしまったこともある。
 鞄がびしょ濡れだ。雨の中を優雅に歩いているのだから当然といえば当然だろう。
 僕は勉学をしに学校に行っているのだから、鞄の中には教科書類がぎっしりと詰め込まれている。鞄がこれだけ濡れているということは、教科書も濡れているはずだ。
 家に帰って乾かしたとしても、教科書たちは無様な皺を残すだろう。
 いや、滲んで読めなくなっているかもしれない。
 さてどうしたものか。
 鞄を開けるのが嫌になってきた。
 雨の中を傘も差さずに歩くのはなかなかの風流だと思っていたのだが、その気持ちが見事に吹き飛ぶ。
 足取りがどんどん重くなっていく。
「ぼうや」
 その声に、僕は立ち止まる。
 さっきの人の声だ。
 いや、それだけではない。
 僕はあたりを見回す。
 さっき声をかけられた場所だ。
 気づけなかった自分の鈍さを悔やんだ。
 化かされている。
 僕はさっきから同じところをぐるぐると歩かされているのだ。
「入っていくかい?」
「…結構です」
 その人を見ることなく答えた。
「遠慮しなくていいよ」
「結構です!」
 僕は走り出す。
 なんとかしてここから逃げ出さなければ。
 もうずぶ濡れの鞄などどうでも良い。
 本来ならこの道をまっすぐ行くのだが、わざと角を曲がった。
 かなりの遠回りになるが、今はそんなことを言っていられない。
 見えない何かから逃げるように、がむしゃらに走った。
 それでもたどり着くのは、やはりあの場所。
 どうしたものか。
 切れる息を静めつつ、ゆっくりとした足取りで近づく。
 あの角に来た時、
「ぼうや」
 やはり声をかけられた。
「入っていくかい?」
 了承するまで、おそらく僕はここから逃げ出せないのだろう。
 しかし、了承すれば、もっと最悪な事態になりそうだと、僕は本能的に悟ったのだ。
「僕は貴方の傘に入る気はありません」
 きっぱりと言った。
「遠慮しなくていいよ」
「遠慮なんてしてません」
「ずぶ濡れじゃないか」
「わかってますよ。だから早く家に帰して下さい」
「一緒に帰ろう」
 話が通じない。
 通じるとは思っていないが、これは大変なことに巻き込まれてしまった。
 このあたりも物騒になったものだ。
 どうしたものかと考える。
 僕の中に流れる神祇官の血筋が何か良い案をひねり出してくれるかもしれないと期待したが、期待するだけ無駄だった。
 僕はそういう修行をしていない。基本的なことすら知らないのだ。
 つまり、僕はここから逃げる術を知らない。
 気づきたくない事実に気づいてしまった。
「入っていくかい?」
 それでもやはり、僕はこの傘に入りたくない。
 こうなったら意地のぶつかり合いだ。
 どちらが先に折れるか。
 もちろん僕は折れてやる気など毛頭ない。
 僕は再び走り出す。今度は角を曲がることなく、まっすぐ走った。
 まっすぐまっすぐ。
 それでもやはり、この場所へとたどり着いてしまう。
「入っていくかい?」
 声をかけられたが、僕は無視をして駆け抜ける。
 それを何度続けただろうか。
 さすがに走るのに疲れてしまった。
 とうとう立ち止まる。
 この先に見えるのは、やはりあの場所だ。
 疲れた。ここに座り込んで休みたいぐらいだ。
 だからといって、あの傘に入ってやる気などない。絶対に負けてやるものか。僕は頑固なのだ。
 一歩ずつ前に進み、あの角に近づく。
 また声をかけられても突っぱねてやる。
 ところが。
速燈(はやひ)君?」
 かつて僕はこれほど彼をありがたいと思ったことはあっただろうか。
輔毅(ふき)君!?」
 あの角にいたのは、僕の従兄、輔毅君だった。
「速燈君、ずぶ濡れで何してるの?」
「ふ…輔毅君こそ、どうしてここに…?」
「用事があって、帰る途中なんだ。入っていく?」
 傘を差し出す。
 さっきの女の人が輔毅君に化けているのではないかと疑ったが、 どこからどう見てもこれは僕の従兄、輔毅君だ。なぜだか自信があった。
「…女の人、いなかった?」
「女の人?ああ、もしかしてこれ?」
 輔毅君ばかりに気をとられていて気づかなかった。
 輔毅君が指を差した先に、赤い傘が立てかけられていた。
「速燈君、もしかして絡まれたの?」
「…まあ、そんなところかな」
 輔毅君は傘を手に取る。
「…大丈夫なの?」
「大丈夫だよ。はい、傘」
 自分の傘を僕に渡し、輔毅君はというと、あの赤い傘を差した。
 僕はもう一度、大丈夫なの、と尋ねたが、輔毅君はやはり、大丈夫だよ、と笑った。
「そういえばこの間、あそこで女の人が亡くなったらしいよ」
「えっ…」
「今日みたいな雨の日だったみたい。子供を亡くした悲しみから立ち直れなくて、子供を見るたびに自分の子と勘違いして家に連れ込もうとしていたらしいよ」
「そうだったんだ…」
 このあたりでは知れ渡っていただろうが、僕の家のところまではその噂は届いていなかった。
 こういうことは話すと病が移るかの如く嫌がられるので、誰もが口を閉ざしてしまったのだろう。
「ねぇ、輔毅君。その傘、ちゃんとお祓いして供養してくれる?」
「うん、ちゃんとするよ。任せて」
 そう言った輔毅君の顔はどこか悲しげだった。
 僕はまた、大丈夫、と聞いた。
 輔毅君はやはり、大丈夫だよ、と答えた。





 四の幕 雨の中<了>




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