ちょっとしたお話を。
まだ開かぬ桜の花。
そのつぼみを見て、海晴(みはる)は少し寂しくなった。
数年前、この桜の花に迎えられて、自分はこの学校に入学した。
これでもかと咲き誇る桜があまりにも綺麗で、明るくて、賑やかで、自分の新生活への希望を沢山与えてくれた。
そしてこの学校で過ごす内、幾度かこの桜と共に過去の海晴たちのような新入生を迎え入れた。
しかし、それももう出来なくなる。
この桜が次の新入生を迎え入れるその時には、海晴はもうここにはいない。
今日この日、海晴は学校を卒業した。
進学する人、就職する人、それぞれの未来に希望を抱き、この学生生活への終止符を打つ。
先日まで毎日のように顔を突き合わせていた友たちは、それぞれ別の道を歩み始める。
もう2度と訪れることのない、皆で過ごした日々。
その予感は誰も口にしなくても、皆の胸に密やかに渦巻いていた。
言葉にしないことがより一層、その予感を確実なものに変えていく。
「海晴、こっち来て。皆で写真撮ろうよ」
友人が笑顔で海晴を呼ぶ。
海晴も頷き、そちらへ駆け寄る。
背中越しに桜の枝が風にそよぐのを感じる。
一歩、前へと踏み出す。
海晴と桜の距離は少し開く。
明日にはもう、校門をくぐってこの桜を見ることはない。
それぞれが新しい学校、新しい勤め先、新しい場所へ向けての準備を始めている。
そこには見知らぬ世界と見知らぬ人たち、昨日の友の姿はない。
更に一歩を踏み出す。
今にも開きそうなくせに、その花をかたく閉ざしたままの桜のほのかな香りが鼻を掠める。
視線の先に集まり、海晴を手招きする友人の顔がやけに明るい。
そこにあるのはこの学校で共に過ごした友人との最後の時間。
もう一歩、足を踏み出す。
未だ見ぬ今年の桜を頭に描き、3年前に思い描いた新しい学校生活を自分の記憶で塗り替える。
期待に満ち溢れたこれからを思い描いている過去の自分、その夢。
そこには次々に目の前の友人の姿が埋め込まれていった。
海晴はついに走り始めた。
背中にまとわりつく過去への執着を振り切るように。
未だ見ぬ桜。
それは海晴の今までの世界を拒絶する。
新しい世界。
3年前、あれほど輝いていた言葉が海晴の胸を締め付ける。
もう景色など見えていない。
ただひたすらに友人の元へ。
この最後の時間を写真という形に焼き付けて、私は後生大事にしなければならないのだから。
海晴は自分を呼んだ友人の手に縋り付く。
驚いた友人の顔。
しかし、彼女はすぐに納得したように笑うと海晴の体を抱きとめた。
「海晴」
耳元から声がする。
友人の制服の襟元のラインがぼやけて見える。
暖かな手が海晴の頭を撫でると、揺れた視界からひとしずくの水が零れ落ちた。
別離 - 了