掌編小説

ちょっとしたお話を。

 

歌姫




 コンコンコン。  規則正しいノックの音が静かな部屋中に響いた。
 ベッドに項垂れていた女性は、倦怠感のとれない体を気だるそうに捻りながら扉の方を向いて声を出した。
 その声には覇気が無く、風邪でも引いているかのように掠れていた。
「入って…」
 ガチャ。
 ゆっくりと扉が開き、人影が部屋に入ってくる。
 それはとても容姿の整った女で、するりと長い黒髪が室内の少ない光を器用に集めて艶やかに輝いている。
 彼女は部屋をぐるりと見回し、最後に部屋の住人の姿を認めると瞳を見開いて言った。
「酷い」
 彼女はすぐさまベッドに駆け寄り、女性の背中をさする。
 そこには、ぼろぼろになってしまった翼の跡。
 人ならざる者の証。
 彼女の前にいる歌乙女(セイレーン)は、人の形を保っていられないほどに衰弱していた。
 その跡に触れると彼女は思わず泣き出しそうになる。
「何であなたがこんな姿に・・・」
 震えた声に彼女が泣き出しそうだと悟ったのか、女性は通りの悪い声を幾分明るくして言った。
「いいのよ、私が選んだことだから」
 必死に言葉をつむぐ女性の声に彼女は堪えきれなくなり、思わず涙が頬を伝う。
「いい訳ないでしょう!このままじゃあなた、死んじゃうかもしれない!」
 彼女は怒気を含んだ強い口調でそう言った。
 女性はそれに幾分か驚いたようで、困ったように視線を彷徨わせ、苦笑する。
 女性は魔に属する者でありながら、人を愛した。
 古来より人と魔の者は相容れないものであり、それは禁忌を犯すということだった。
 禁忌を犯したものは遅かれ早かれ皆処分される運命にある。
 女性にとって死んでしまうかもしれない、というのは覚悟の上だった。
 一族を裏切り部落を飛び出した自分には、帰る場所も、頼る人も、何もなかった。
 ただ目の前にいる青年を愛し、その愛の為だけに生きることを固く誓った。
 たとえどんなに長い生であっても自分の生きた証を残せるとは限らない。
 それなら自分の満足する結果を残して死んでいきたかった。
 だから、女性は青年とともに過ごすほんの少しの時間を選んだ。
 女性にとってはそれが正しい道だったから。
 でも。
 青年は女性を裏切った。
 たった一つ、手紙を残して女性の前から姿を消した。
 手紙にはただ一言。
 -もう会えない
 と。
 女性はたった一つのものまで失った。
 そしてその時初めて自分が捨て置いたものの大きさに気付いた。
 家族、友人、故郷。
 それら全てを棄ててまでたった一人の命短きものに現を抜かした自分は、まさしく馬鹿者なのだろう。
 それでも彼女は自分の選択が間違っていたとは思わない。
 それほどまでに青年を愛していた。
 女性は答える。
「かもしれないんじゃない、本当に死ぬのよ」
 その言葉に再び彼女が目を見開く。
「仕方がないことだわ。だって私は禁忌を犯した。貴女の事だって裏切ったのよ」
 女性は目を伏せたまま悲しそうに微笑む。
 その言葉に彼女は口を噤む。
「さぁ、もう帰りなさい。ここに来ていたことが部落の者に知れたら、貴女まで罰を受けることになる。誰にも知れないうちに早く…」
「だからって」
 彼女は女性の言葉を遮る。
「貴女が私を裏切ったからといって、私が貴女を裏切るとは限らないわ」
「何を…?」
 今度は女性が瞳を見開いた。
「逃げましょう、やっぱり私は貴女を見捨てることなんて出来ない」
 そう言って彼女は女性の腕を掴むとベッドから起き上がらせる。
「しきたりが何になるのよ。貴女は何も悪くないじゃない!私達歌乙女が魔族に恋焦がれるのと同じように、貴女はたまたま人を愛しただけだわ!それで死ななきゃいけないなんて間違ってる」
「でも」
「確かに人と交わればそれは禁忌になるかもしれない。でも貴女はまだそうではないんでしょう?」
 女性が俯く。
「貴女が死ななければいけないというのなら、魔族に恋をした私達歌乙女だって同罪だわ。さぁ、行きましょう」
 女性はまだ困惑していた。
 自分が犯した罪の重さ、与えられるべき罰。
 自分が死ぬことは当然の理だと信じていた。
 でも今この瞬間、彼女はそれが間違いだと言った。
 自分には分からない。
 彼女の言葉を信じるべきか、そうではないのか。
 でもただ一つ言えることがある。
 彼女を裏切った自分の元へ、彼女は手を差し伸べてくれた。
 それがひどく嬉しかった。
 自分には彼女の手を取る資格などないことは分かっている。
 それでも―

 それでも、女性は弱く彼女の手を握り返した。
 彼女はそれに、優しく微笑んだ。



 歌姫 - 了



 

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