掌編小説

ちょっとしたお話を。

 

むら しちぶ - 壱




僕は額をつ、と伝う汗を腕で拭うと、手にした鍬をつっかえ棒にして一休みする。
風が温かくなり始めた4月のはじめ。
僕は自分の畑に急いで種をまく。
暖かくなるのを待つ内に、思った以上に日は流れていた。
視線の先にある自分の家――今はそこには自分しか住んではいない――を見て小さくため息を吐くと、 僕は再び畑仕事へ戻っていった。



僕の父は酒癖の悪い男だった。
普段からまじめとか優しいといった印象はない人だったけど、 別段悪い印象を受ける風でもなかった。
しかし、ある日を境に彼は変わった。
1週間ほど村から姿を消したかと思うと、彼は泥酔した状態でふらりと家に帰ってきた。
そして彼を心配し、何処で何をしていたかと問うた母に、ただ一言「うるさい」というと、 彼は突然手を挙げたのだった。
以来、彼は畑を耕すこともせず、ただ酒を飲んでは母に手を挙げるようになった。
そして彼の暴挙は徐々に酷くなって行き、ついには僕までもが彼の暴力の対称になった。
その頃には母は既に、肉体的にも精神的にも病んでいた。
けれど、母親の本能からか、父が僕に拳を振り上げると、その身を挺して僕を守ってくれた。
まだ幼かったその頃の僕は、ただその状況に戦慄し、恐れおののいているだけだった。
しかし、そんな状況が長く続くはずはない。
精神的に限界に達した母は、ある日父が泥酔して寝ている隙に、 小振りの葛篭を持ち、僕の手を引いて家を出た。
そして村はずれの小高い丘の上にポツリと立つ杉の木の下へ行くと、僕にこう言った。
「桧露(ひつゆ)よく聞いてね。母さんは遠くへお出かけしなくちゃいけなくなっちゃったの 」
悲しそうに言う母の表情に僕は不安を隠しきれず、母の小袖をぎゅっとつかみ、 それに母が苦笑する。
思えばこの時の母は父が暴力を振るう前のように、 精神的にとても安定しているように思えた。
「大丈夫よ。お母さんは行かなくちゃいけないけれど、その代わりにね、 桧露はもうお父さんのところに帰らなくていいのよ」
僕は母の言葉に「ほんとう?」と問いかけた。
そして「もう痛くならなくて済むの?」とも。
それを聞いた母は悲痛な表情を浮かべて僕をぎゅっと抱きしめた。
「ええ。もう大丈夫、大丈夫だからね」
そして僕を胸からそっと放すと、眼下に見える村を指差して、話を続けた。
「お日様が沈んで真っ暗になったら、お家をずうっと見ていてちょうだい。
それからもう一度お日様が昇るまでにお家が真っ赤に染まったら、 あなたはこれを持って村長さんのところへ行きなさい」
そう言って母は葛篭を指差す。
「もしお家が真っ赤にならなかったら、お日様の昇る方に向かって歩きなさい。
お隣の村、前に行ったの覚えてる?」
僕はこくりと頷く。
それを見て母はにっこりと笑った。
「いい子ね。その時は母さんのお友達に葛篭を渡すのよ」
僕はまたこくりと頷いた。
その僕の頭を数回撫でてから、母は僕にお守りを渡した。
「桧露、これは母さんが母さんのお父さんからもらった大切なお守りよ。
きっとあなたを守ってくれるから、大切にするのよ」
そう言ってお守りを握った僕の手ごとぎゅっと握り締めた。
数秒そうした後にすうっと僕の手を離すと、母は2度と振り向かずに村の方へ走って行った。
僕はと言うと、ただ母の言葉を守るためだけに、 日が暮れて真っ暗になった丘の上で、村の方をじっと見つめ続けていた。
父に殴られる日々が続いて僕も精神的に麻痺していたのかもしれない。
家族3人で楽しく過ごしていた時には怖かったお化けも妖怪も、 その時は全く怖くなかった。
いや、存在を忘れていたと言った方が正しいかもしれない。
とにかく僕は「父のところへ帰らなくていい」という母の言葉を信じて ずうっと村の方を見つめていたのだ。
そうして何刻ほど経ったのだろうか。
僕はいつの間にか木の根元に腰を下ろして 眠りこけていた。
目が覚めたのは、強いにおいが鼻腔を突いたからだった。
はっきりしない意識のままでぼんやりと目を開けると、 目の前にはっきりとした朱(あか)が広がっていた。
僕の目は一気に覚める。
そして直感的に母の言葉が真実となり、2度と僕は父のところへ帰らなくて済むのだと思った。
僕は喜びのあまり心臓の鼓動が早くなるのを感じた。
そして真っ赤に染まる村の光が、自分を祝ってくれているような錯覚さえ覚えた。
僕はその興奮冷めやらぬままに母の残した残りの言葉を真実にするべく 葛篭を抱えて村へ駆け下りたのだった。

------------------------------------------------------------- 2009.4.9 「むら しちぶ - 壱」 - 了



 

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