掌編小説

ちょっとしたお話を。

 

風が季節を運んでくると




少女がぱちりと目を開くと、そこにはなだらかな稜線に重なる夕日が見えた。
少女がそれを夕日だと知り得たのは、眺めているうちに太陽の姿が小さくなっていったからだった。
少女は自分が何故、こんなところで目を覚ましたのかをぼんやりと思い出した。
今朝、少女の大好きだった犬が死んだ。
その犬は少女が生まれるより前に家にいて、少女の兄のような存在だった。
赤面症で口数の少ない少女にとって、言葉が無くとも傍に居てくれるその犬は、人間の誰よりも大好きで大切な存在だった。
その、最も大好きな存在がこの世から居なくなった。
最初、少女にはそれが理解できなかった。
いくら名を呼んでも体を揺すってもぴくりともしない犬に、少女は混乱した。
なんでいつもの様に顔を上げないの?
なんでいつもの様に鼻っ面を押し付けてこないの?
少女の中で「なんで」は幾つも重なって、怒りに変わる。
いつも自分に一番のものをくれた犬が、自分を見向きもしなくなったのだと思った。
少女はかっとして、気付いた時には泣きじゃくって犬のことをばしばしと殴りつけていた。
何事かと駆けつけた少女の父は、その状況を把握するや、少女の拳を優しく止めた。
そしてとても穏やかに、
「お別れのときが来たんだよ」
そう言った。
少女は尋ねた。
「お別れってなに?」
父は答える。
「もう会えなくなることだよ」
少女は首を傾げる。
「なんで?―はここにいるよ?」
父は寂しげに笑う。
「―の、心が遠くに行ったんだよ」
少女は父の言葉をなぞる。
「心が遠くに?」
父は頷いた。
少女は心がどういうものかを知っている。
それは楽しいとか嬉しいとか辛いとか、そんなものを感じるところだ。
それから好きとか嫌いとか、そんなものも。
だから、少女は父の言葉を理解すると同時に、自分の知っている犬にはもう会えないことを悟った。
少女は家を飛び出して走った。
少女の知っている、一番「遠く」に「近い」場所、草原に浮かぶ小高い丘。
遠い国から旅してきた風が、そこに季節を運んでくるのだと、いつか父が言っていた。
だから、少女は思った。
ここを訪れた風が、犬の心を次の旅に連れて行ってしまったのだと。
「―!!」
少女はひたすらに犬の名を叫んだ。
叫んで、叫んで、叫び疲れて、草の上に眠り込んでも、返事は返ってこなかった。
再び目覚めた少女の目に映ったのは、赤く燃え上がる夕日の色だった。
少女は、犬がもう戻らないことを確信した。
けれど、夕日があまりにも綺麗で、犬がその先に行ってしまったのなら、仕方がないと思っていた。
以来、少女は幾たびも丘に登った。
丘に吹く風はいつも心地よく、少女の心を包んでくれた。
そしてふとした瞬間、風の香りの中に懐かしさを感じることがあった。
少女は今も、大好きだったあの犬が季節と共に旅をしていると信じている。



風が季節を運んでくると - 了



 

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