掌編小説

ちょっとしたお話を。

 

迷子




 嫌気が差してくるほど長いこの坂道を下っていた。
 太陽が身を焦がす。
 そういえば。
 私はここに引っ越してきたばかりのことを思い出していた。
 方向音痴の私は、迷うことが多かった。
 しかもあの時は、越してきたばかりの慣れない土地。
 帰れない。せっかくおつかいしたのに。
 泣き出しそうになるのを必死で堪える。
 閑静な住宅街のため、目印になるようなものは何も無い。
 だけどひとつだけ、傍にはお地蔵様が佇んでいた。
 優しく微笑むお地蔵様に、私は手を合わせて必死に祈る。
 お願いします。どうか帰らせてください。
 それから目に一杯涙を溜め、再び歩き出す。
 どこをどう行けばいいのかさっぱりわからない。もう勘に頼るしかない。
 涙で歪む視界。必死で泣くな泣くなと自分を励ます。
 角を曲がらず、だらだらと長く続く坂道を登りきる。
 すると、自分と同じぐらいの年頃の男の子が立っていた。
 じっとこっちを見ている。
 泣いているのが変に思われたのだろうか。
 俯いて、足早に立ち去ろうとする。
「こっち」
 たった一言、そう言って突然手を握ってきた。
 とても冷たい手。
 でも力強く私を引っ張る。
「こっち」
 男の子は何度もその言葉だけを発し、私の手を引いて歩く。
 方向音痴の私には、どこをどう歩いているのかさっぱりわからない。
「こっち」
 手は酷く冷たいけれど、優しい声。
 何度も角を曲がり、足早に進む。
 どれぐらい歩いたのだろうか。
 あの頃の私には、その時間が長く感じられた。
「ここ」
 男の子が初めて違う言葉を発し、指を差す。
 そこは、まだ見慣れぬ越してきたばかりの自分の家。
 ありがとう。そう言おうとして振り返ったが、もうあの男の子はいなかった。
 走って近くを探してみたけど、どこにもいなかった。
 あの男の子は一体誰なのだろうか。あの子はどうして私の家を知っていたのだろうか。
 いろいろ疑問を残したまま、あの子は消えてしまった。
 私はあれからもう迷子にならないよう、必死で道を覚えたため二度と迷子になることはなく、あの男の子とも会っていない。
 あの近くに住んでいる子なのかもしれないと思い、あのあたりを何度も探してみたけどやっぱり会えなかった。
 それから何年もの時が経つ。
 この土地に馴染んだ私には、彼はもう必要なくなっていた。
 だけど、一度も忘れることはなかった。
 何年もの月日が経ち、それでも同じようにやってくる日々。
 私は長く続くこの坂道を、角を曲がらず一直線に下っていた。
 閑静な住宅街。目印になるようなものなんて何も無い。
 でもやっぱりそこにはお地蔵様が優しい笑みを浮かべて佇んでいる。
 私は手を合わせ目を瞑り、祈る。
 どうか、新しい土地でもうまくやっていけますように。そして迷いませんように。
 目を開けると、お地蔵様がいつも以上に優しく微笑んでいるような気がした。
 今日、この町を出て行く。
 決意を胸に、一歩一歩前に進む。
 最後に振り返ると、あの男の子がいってらっしゃい、と手を振っているように見えた。


迷子 - 了



 

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