掌編小説

ちょっとしたお話を。

 

大好きな季節




 忙しなく移り変わる景色。
 時折見せる桜の木。
 もっと見ていたかったけど、桜はすぐにさよならを告げてしまう。
 ガタンゴトン。
 電車が規則正しく私を揺らす。
 人の少ない電車の中、私はずっと窓の外を眺めている。
 また、桜が私の目に映った。
 桜は好きだった。桜を見ると大きな優しい手を思い出す。
 それは、私がまだ小さかったころ。
 あの日、私は家を飛び出した。
 幼稚園の頃から、ずっと一緒に遊んでくれていた近所のお兄ちゃんが、遠くに引っ越すことを聞いたからだ。居ても立ってもいられなかった。どうして遠くに行ってしまうのか、聞きたかった。
 私はお兄ちゃんが大好きだった。優しくて背が高くて格好良くて、頭も良くて。
「ずっと一緒に遊んでね」
 いつも私がそう言うと、お兄ちゃんは優しく私の頭をなで、笑って頷いてくれた。
 それなのに、お兄ちゃんは遠くへ引っ越してしまう。
 私は思わず家を飛び出していた。
 今会わなければ、二度と会えない。馬鹿げたことだけど、あの頃の私は本気でそう信じていた。
 まだ知らない道を駆け抜けて、ただひたすらに会いたいと思った。
 まだ狭い世界しか知らない私にとっては大冒険。
 すべてが初めてだった。
 ふと、私は立ち止まった。
 自分の名を呼ばれた気がした。
 どうして自分の名前を知っている人がいるんだろう。
「かずな」
 私は振り向いた。
 聞き覚えのある声、見覚えのある顔。大好きなお兄ちゃんだった。
 会社帰りのお兄ちゃんが、驚いた顔で私を見ていた。
 見上げれば、空はもう真っ暗。
「どうしたんだ、こんなところまで」
 その言葉を聞いた瞬間、張り詰めた全ての糸が切れたように私の瞳はひたすらに涙をこぼした。
 悲しいわけじゃなかった。寂しかったわけでもなかった。どうして泣いているのか、自分でさえわからない。
 そんな私にお兄ちゃんは困ったような顔をして、その後、おいで、と私の手を引っ張った。
 行き着いた先は近くの公園。
 お兄ちゃんは傍にあった自動販売機で、ジュースを買ってくれた。
 ベンチに座る。
 ベンチの後ろには桜の木。たまにひらひらと花びらが落ちてくる。
「お母さんと喧嘩したの?」
 お兄ちゃんは優しい笑顔で尋ねた。
 私は小さく首を振る。
「…お兄ちゃんが遠くに行っちゃうって聞いたから…」
 そう言うと、お兄ちゃんは困った顔をした。
「私のこと嫌いになっちゃったの…?」
「違うよ。そうじゃないんだ。俺はね、大切な人を見つけたんだよ」
 ひらりと花びらが舞い落ちる。
「大切な人?」
「そうだよ。すごく大切な人。だから俺はその人と一緒に暮らすんだ」
 微かだけど、理解した。
 お兄ちゃんは、手の届かない世界に行ってしまうんだということを。でもとても幸せそうな顔をしていて、それは祝福するべきことなんだと。
「…私のこと、忘れないでいてくれる?」
「ああ。約束するよ」
 指切りをした。
 ゆびきりげんまん、と歌い終わったところで、俺のことも忘れないでね、とお兄ちゃんは言った。
「約束するよ」
 大好きだよ、と心の中で付け加えた。
「じゃあ、帰ろう。一応、お家には電話しておいたけど、あんまり長く出歩くのはお母さんもお父さんも心配するだろ?」
 お兄ちゃんは手を差し出す。
 だけど私はその手を握らなかった。
「どうした?」
「帰りたくない」
「どうして?」
「だってお母さんとお父さん、ケンカして…」
 一昨日あたりから母と父は喧嘩をしていた。
 原因は幼い私にはわからなかった。ただ心にポッカリと穴が開いてしまったようで、不安だった。だからお兄ちゃんに会いたかったのかもしれない。
「お母さんもお父さんも心配してるよ。きっと、後悔してる」
「…後悔?」
「そう。すごく寂しくて悲しくて、つらい気持ちになってるよ。だから帰ろう?」
「でも、いっしょにいたくない」
「かずなは後悔するのは嫌だろ?このままずっとお母さんにもお父さんにも会えないのは嫌だろ?」
 桜がひらひらと舞い落ちる。
「後悔は嫌な気持ちになるだけだ。かずなはもうわかるだろ?」
 私は小さく頷く。
「誰かが嫌な気持ちになるのは…私も嫌」
「うん。それに一人では生きていけないだろ?」
 とても優しい口調。
 自分の世界であろうと自分の知らない世界であろうと、自分ひとりでは生きてけないということを私は知っている。だからお兄ちゃんは誰かと一緒に生きていくことを選んだ。
 それはきっと祝福しなければならないことで、私はそれにおめでとうと言ってあげなければならなくて。
「帰ったらきっと、お母さんもお父さんも優しく抱きしめてくれるから。ごめんねって言ってくれるから。だから帰ろう?」
 大丈夫だからと、お兄ちゃんは優しく笑って私の頭をなでた。
「…うん」
 私は小さく頷いた。
 帰り道、私はお兄ちゃんに、おめでとう、と言った。
 お兄ちゃんは照れくさそうに笑って、ありがとう、と言った。
 手をつないで家に帰ると、お母さんは私を抱きしめてくれた。お父さんは申し訳なさそうにお兄ちゃんに頭を下げていたのを覚えている。
 そして、お兄ちゃんとお別れの日。
「おめでとう」
 私は祝福の言葉を捧げた。
 お兄ちゃんはやっぱり照れくさそうに笑って、かずなのことは忘れないから、と頭をなでてくれた。
「おめでとう」
 私は小さくなっていく車を見送りながら、もう一度つぶやいた。
 桜の季節だった。
 大人になれば自分の世界も広がってくる。それと同時に、どうしても手の届かない世界も見えてしまう。
 あの時、お兄ちゃんと出会えて安心したから、知らない世界で心細かったから涙がこぼれたのではなく、きっと自分の知らない世界があまりにも大きすぎて涙がこぼれたのだろう。
 だけどあの時知らなかった世界は、今の私にはとても狭くて、それが大人になるということだとわかった。
 電車が止まった。
 扉が開き、人が行き交う。
 この駅から先はまだ見知らぬ世界。私の知らない広い世界。
 ゆっくりと、しかし確実に電車が再び動き出す。
 私は視線を窓の外に移した。
 桜が舞う、私の大好きな季節。
 すぐに桜は私にさよならを告げてしまう。
 そして、私はこれから開かれる新しい世界に、こんにちはを告げた。



大好きな季節 - 了



 

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