掌編小説

ちょっとしたお話を。

 

門出




 求人には、耳に心地よい言葉ばかりが並んでいる。
 「大自然の中で」「スローライフ」「とれたて野菜」
 だが彼にはそんなことはどうでもよかった。その言葉に惹かれたわけではなかった。
 では、なぜ。
 彼にも周囲が納得できるほどの理由はなかった。明確な理由はないけれど、彼は今ここにいる。
 車掌がアナウンスで次の駅名を告げる。
 彼は電車の窓から視線を車内に戻す。
 車内には人はほとんどいない。平日の田舎を走る電車に人は乗って来ず、車内は時たま流れるアナウンスか線路が走る音しかしない。
 ゆっくりと速度を落とす電車。
 生まれ育ったところよりもはるかに小さな駅。
 彼はドアを見つめる。誰か乗ってくるのだろうか。どんな人が乗ってくるのだろうか。
 ドアの外を見つめる。
 電車が完全に止まり、一呼吸置いて、ドアが開いた。
 静かなものだ。人の行き交う音が聞こえてこない。
 しばらくして笛が鳴り、ドアが勢いよく閉まった。
 一つ前の車両には何人か乗っていたようだったが、結局彼の車両は誰も乗ってこなかった。
 ゆっくり動き出す電車。
 彼は窓の外に視線を移す。
 広がる田畑。その向こうにぽつりぽつりと民家が見える。
 彼にとって田舎は珍しかった。地面はコンクリート、道路は全て片側二車線以上で、バスは十分おきにあり、テレビ以外で作物が実る様子を見たことが無かった。
 もしかしたら彼の今までの暮らしの方が異常だったのかもしれない。
 昼間は学校、夜は予備校。成績でクラスは分けられ、周りの友人達はとにかく上の大学に入ることしか考えていない。定期テストに全国模試。成績が下がれば怒られ、たとえ上がったとしても、もっとできるはずだと追い詰められた。毎日毎日勉強に追われる日々。毎日毎日同じことの繰り返し。それが何年も続いた。
 なぜこんなに追われているのかなんて彼自身わからなかったし、周りの友人達も確かな答えを持っている者はいなかった。教師でさえ、あやふやな答えしか持っていない。
 嫌気が差していたのは彼だけではなかったはずだ。しかし、誰も逆らえない。それ以外に何も見つけられないでいるからだ。
 彼も見つけられず、ただずっと何気なく生きてきた。周りの大人たちの言う通りに生きてきた。幼いころはそれでよかったのだ。彼も満足していた。大人たちを信用して、誰もが口に出す、言う通りにしていれば間違いなどない、という台詞に従った。
 疑問を持ち始めたのは最近のことだ。
 成績がうまく上がらないからなどといった理由ではなく、人間関係がうまくいっていないという理由でもない。彼の成績は申し分なかったし、教師達からの期待も大きかった。人間関係もうまくいっていた。
 これといって不満は無かったわけだが、拭いきれない虚無感が彼の中にはあった。これで本当にいいのかと、これで本当に満足かと、もう一人の自分が囁きかける。
 ちょうどその頃だった。
「なんかお前、変わったな」
 昼休みの校庭で、他の生徒達が遊んでいるのを眺めていた時だ。一番仲の良かった友人がそう言った。
「前はもっと楽しそうだったけど、最近は表情がない」
 そうかもしれない、と彼も思った。
 しかし、前と今では世界が違うし状況も違う。
「昔みたいに何でもかんでも楽しいってわけにはいかないだろ。特に今は」
 高校三年の夏。勝負の時だ。
 皆焦り始め、クラスの雰囲気もどことなくピリピリしている。
 彼は順調だったからそんなことはなかったし、この友人は無理せず入れる大学に行くということだったため、他の者達より幾分かは気が楽だった。
「彼女でもできれば楽しいんじゃないのか?」
「そんな暇無いだろ。予備校もあるし」
「お前順調なんだろ?何でそんなに追われてるんだ?」
「…別に」
 彼は追われていたわけではなかった。嫌気が差していたのだ。この日常に。
「最近全然楽しそうに笑わない。お前、変わったな」
「変わることは悪いことじゃないだろ。むしろ普通だ」
「…そうだな」
 何でも楽しかった頃とは違うのは、彼もこの友人もわかっていた。
 暗くなるまで遊び、多くの冒険をして暮らしていた頃よりも世界は大きく広がり、彼らは物事の道理も人の狡さもはっきり見えてきていた。
 だが、それも日常だ。
 虚無感に襲われながらもその中で生きていく。あの頃とはもう違うのだ。
「もう、戻れないんだ」
 ぽつりと彼がつぶやくと、親友も、そうだな、とぽつりと返した。





 彼は視線を車内に戻していた。
 田畑の景色は山へと移り変わり、やがてトンネルに入り真っ暗になっていた。
 彼は鞄の中からペットボトルを取り出す。この電車に乗る前に買ったお茶だ。
 特に喉が渇いていたわけではなかったが、見るものもやることもなかったため、とりあえず一口お茶を飲む。
 しばらくはトンネルが続く。長くトンネルの中を走っていると、耳が痛くなってくる。
 彼にとっては、滅多に経験のないことだった。中学の修学旅行で新幹線に乗った時に一度そうなっただけで、それ以降一度も無い。そもそも長くトンネルの中を走る電車に乗ることなどなかった。
 耳が痛くなるのをお茶や唾を飲み込んだり、耳を叩いたりして対処をする。
 すると、一つ前の車両から車掌が入ってきた。
 彼は手を上げ、すいません、と声をかける。
 車掌は、はい、と返事をして笑顔で彼の元へとやって来た。
 ポケットから切符を取り出し、車掌に渡す。乗り越し精算をしてもらうためだ。彼の目的地は少し遠く、切符売り場の上に掲げられている料金表には乗ってなかったのだ。
 どこまでですか、という車掌の問いに、彼は自分が降りる駅名を告げた。
 車内の中はトンネルを走る音と、車掌が乗り越し精算をする機械を押す、ピッ、という音だけだ。
 ピッピッ、という音は車内によく響く。音楽が流れているわけも無く、人がたくさん乗っているわけではないし、当然しゃべり声も聞こえない。
 誰も何もしゃべらない中、850円です、と車掌は乗り越し分の料金を告げた。
 彼はポケットから財布を取り出し、1000円札を抜き取る。もしかしたら小銭がちょうど850円あったかもしれないが、面倒だったので千円札を手渡した。
 車掌は笑顔で乗り越し精算をした切符と、おつりの150円を彼に渡す。
 ありがとうございました、と頭を下げ、車掌は次の車両へと移って行った。
 彼は車掌の背中を見送り、姿が見えなくなるとお釣りを財布の中に突っ込み、ついでに切符も一緒に突っ込む。そしてポケットに財布を突っ込んだ。
 再びお茶を一口飲む。
 と、音が変わった。
 彼は窓の外に目をやると、真っ暗だった景色が、前の車両からどんどん田畑の景色へと移り変わっていく。
 彼は首を逆側に捻った。
 通路の向こう側の窓からは人家や店が見える。道は狭く、バスはあまり通ってなさそうだ。
 不便そうだな、と彼は思った。
 これからは今までとはまったく違った生活となる。うまくやっていけるだろうか。不安が無いわけではない。
 しかし、自分はこれを選んだのだ。
 田畑が次々と流れていく。
 彼はひたすらに、移りゆく景色を眺めていた。





門出 - 了



 

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