ソフィアは上機嫌でずんずん歩く。
まだ朝日が顔を出す前。風景は薄暗いが、日が差していないからという理由ではない。
建物の壁はくもの巣のようにひびが描かれ、道は平面に連ならず、高く低く不平等。
1時間も歩けば傷害、強盗、殺人、麻薬中毒。その全てに行き当たる。空気はうるさく、罵声、銃声、爆発音が耳に届く。こんな時間であってもだ。
人間だけならばまだ手の施しようがあったかもしれない。しかしここは人種どころか種族さえもごちゃまぜの坩堝。住んでいるのは人間ばかりではなく、神や天使、悪魔に鬼、妖精、なんでもござれの世界。ありとあらゆる事情で人の世では生きていけない者達ばかりのゴミの掃き溜め。
そして、ここ。荒廃しきった街。最悪の治安。究極の屑の集まり。それが、この第三区域だ。
それでもソフィアは上機嫌で、鼻歌でも歌いそうな勢いで、スキップでもしそうな軽やかさで足を進める。
手にはしっかりと水筒を。たとえ地雷を踏んだとしても放すものかという覚悟で、真空で吸着させるが如く、その手に水筒を張りつける。
中身は水。しかしただの水ではない。教会で手に入れた水。聖水だ。
昼間に訪れれば、親切丁寧に営業スマイルで譲ってくれるだろう。ところがソフィアは夜明け前に教会に忍び込み、こっそり聖水を拝借してきた。
ピッキングはお手の物。どこで覚えたとは聞いてはいけない。気配を殺しつつも堂々とドアから入り、堂々と聖水を頂いてきた。おまけに、扉には最上級の汚い言葉の数々をスプレーで演出しておいた。スマートでスタイリッシュに。
これから訪れるであろう朝の騒動を想像すると、思わず笑みが零れる。してやったり。悔しがって身もだえすればいい。
教会にとって、ソフィアは敵だ。
なぜか。
理由はただひとつ。ソフィアは悪魔に仕えているからだ。この第三区域を治める悪魔に。
当然、面が割れている。ソフィアの姿を見かければ、教会の連中は有無を言わさず彼女を殺してしまうだろう。もし教会連中に情けというものがあるのなら、捕らえて悪魔祓いを行い、再び神に仕えるように説得を試みる。
ソフィアにとってはそのどれもが屈辱的で、死に値する。悪魔祓いなど言語道断。神に仕えるならば自害したほうがマシというもの。
世界の何も知らなかった子供の頃とは違い、今は自由を手にした。自らが選んだ道を美しくないと否定されるなど、許されるはずがない。
そんな彼女が、命を賭けてまで聖水を手に入れた。
結論から言う。
ちょっとした嫌がらせだ。教会にではなく、彼女の主、クリストファーへの。
悪魔であり第三区域の領主であるクリストファーへの可愛いいたずら。ねぼすけの主のために、ちょっぴり刺激的な朝を用意したのだ。
悪魔に聖水。死ぬ?そんなはずはないことをソフィアは知っている。有り得ない話だ。
クリストファーは偉大なる悪魔。十字架など効くはずもない。アクセサリーとして十字架を身に纏ってしまうほどの偉大さだ。だからちんけな聖水程度では傷さえもつかない。ただちょっと嫌がるかもしれないと思っての行動だ。刺激的に目覚めてもらうにはちょうど良い。
主のためなら火の中水の中、敵陣にも堂々と乗り込む。治安が最悪なこの場所で、まだ若い女が日の無い時刻に出歩くことにも躊躇しないほどに。もしも怪しい黒い影が近づいて来ようものなら、サクッとナイフで刺し、シュパッと銃でヘッドショットを決める。
ソフィアはずんずん歩く。ひたすらに自分の道を突っ走る。故に、可愛いいたずらも華麗にやってのける。
さあ、一体我が主はどんな表情でこのいたずらを受け入れてくれるのだろうか。考えるだけでわくわくする。おかげでちっとも眠たくない。
主の屋敷兼自分の住居であるそこに辿り着く前から、派手な音は聞こえていた。怒声、銃声、爆発音の交響曲。奏でるように流れていく。
さすが第三区域。今日も元気。どこの誰だか知らないが、朝っぱらから元気なことだと他人事のように思う。
そしてそこに辿り着いた時、ソフィアは目にする。
神父や修道女の出で立ちをした者達の持つAK-47が火を噴いていた。どうやら別の教会連中が悪魔の住む館に向かって攻撃を仕掛けているようだ。
悪魔の住む館。第三区域の領主であるクリストファーの邸宅。つまりは、ソフィアの住居でもある。
それを、神父と修道女は重火器を手に、勇ましくぶち壊そうとしていた。
こいつら本当に神に仕える者なんだろうか。正義って何だろう。
毎度のことながら、そんな疑問が浮かび上がる。
けれどもここはゴミの掃き溜め。だから神父が銃を乱射していたところで、何の不思議もない。神が引きこもってゲームをしていようと、悪魔が慈善事業に費やしていようと、妖精が麻薬でぶっ飛んでいようと、決して不思議ではない。何の問題もない。
ひとまずソフィアは木陰に隠れる。幸いなことに、館の周りは自然公園のようになっており、木や草むらなど、身を潜ませられるものが多々ある。
この自然公園、誰が整備したか。
もちろん、この悪魔の館に住む人間達だ。
しょっちゅう人間や妖魔が攻めてくる館の傍に誰も住みたくはない。確実に巻き添えを喰らい、家屋は木っ端微塵にされることだろう。そのため、館の周り、半径300mほどは家など一軒も建っていない。荒廃した土地が広がるのは視覚的に寂しいということで、どこからともなくエルフやドワーフを拉致し、強制労働させて造ったものだ。
悪魔に仕えているのだから、人間とてこれぐらいのことはやれる。むしろ非情になれるのは、妖魔よりも人間の方だ。
しかしこうやって何かしらが攻めてきて破壊してしまっては、せっかくの景観も台無だ。またエルフ達を捕まえて来なければ。やはり治安の良い第二区域から連れてくるのが一番だろう。あそこのエルフは特に大人しい。
ソフィアはそんな算段を始め、彼らが撤退するまで待つことにする。
この状況に驚きはしない。不安も恐怖もない。ソフィアは主の心配などしないし、館の心配も、同僚の心配もしない。
主のクリストファーは言わずもがな、あんなちんけなもので死ぬはずもなく、館もクリストファーの力で障壁を張っており、どんなにがんばったところでそれを打ち破れるほどの力もなく、同僚もその障壁の中にいるので、まず攻撃が当たらない。
うん、まあ、がんばれ。
心の中で呆れつつも、敵にエールを送っておく。
ただひとつ、心配なことは――。
壁越しに、必死に屋敷へ攻撃を仕掛けている教会連中を見つめる。
AK-47を撃つ修道女。撃ち方も様になっている。
それもそのはずだ。まだ歳若き彼女や彼らは、教会の手によって作り上げられた戦闘部隊だ。銃の扱い、爆発物の作り方、毒物の精製、軽業師のように建物を登ったり、ピッキングで鍵を空けたり、スリの技術まで、それら全てを神の名において、幼い頃より徹底的に叩き込まれる。悪魔を退治し、この土地を取り戻すまで。
狂っている。
まさに「ゴミの掃き溜め」という名に相応しい。
大義の御旗とは、一体何なのだろうか。
おそらくあの修道女に関しては、「妹を悪魔の手から取り戻すため」なのだろう。
ソフィアは空を見上げる。
黒はどこかへ退散し、今は清々しいほどの青が支配している。
すでに朝が来てしまった。間に合う手はずだったのだが、出入り口を教会連中が封鎖してしまっているため、中には入れない。悪魔の従者とて、基本スペックは人間だ。銃で撃たれれば死ぬし、病であの世とこんにちは出来てしまう。主人は悪魔なので、もちろん助けてくれることなどない。でも、それでいいのだ。それを、選んだのだ。
せっかく早起きして聖水を手に入れたのに、主の寝起きドッキリには間に合わなかった。
大丈夫、今日がダメでも明日がある、とソフィアはにやにやと気持ち悪い笑みを浮かべながらつぶやく。当然、銃声によりかき消されてしまうが。
とりあえず今日の相手は人間で助かった。妖魔相手なら、もっと面倒なことになっていただろう。
ここは絶えずクリストファーの首を狙う者で溢れている。誰かがその首を銀の皿に乗せるのを、誰もが待ち望んでいる。できるはずもないのに、追い求めている。
うまく出来ている。
悪魔の治める土地に、教会がいくつも立ち並ぶ。外の世界では狂信者として厄介払いされた者達。そして反社会的として送り込まれた者達。縄張り争いに負け、この地に到達した妖魔達。
それらが集まったところで大規模な抗争に発展しないのは、絶対的な倒すべき目標を置くことで崩壊を免れているからだろう。
時計を見る。時刻は午前7時15分。主を叩き起こす時間を15分も過ぎてしまっている。
二度寝が得意な悪魔も、この騒々しさは目覚まし代わりとなっただろう。
ああ、毎日毎日365日、嫌がらせの如く午前7時に叩き起こす日課が。毎日の楽しみが。
憎らしいと思う反面、この教会連中が相変わらず元気そうで良かったという安堵も、ソフィアの中にあった。
もしもそれを伝えたなら、我が主は笑うだろうか――。
おそらく、美しい顔を少しばかり歪めて、お前達人間の感情はよくわからん、と言って気にも留めないだろう。そしていつも通り、さっさと出て行け、俺はお前達を雇った覚えはない、と続ける。
そんなやり取りが容易く目に浮かぶ。この悪魔の館に居座るようになってから、何百回も繰り返されてきた。
「この悪魔が!」
ひときわ大きな罵声が聞こえたかと思うと、轟音。
ソフィアが様子を窺うと、クリストファーが彼らの前に姿を現していた。その背には、真っ白に煌く翼。
ミサイルが突進する。
それを、クリストファーは手で振り払う。鬱陶しいと言わんばかりに。
直撃したはずのミサイルが、方向を変え、空で大爆発。
それからクリストファーは、彼らに向かって大きく翼を羽ばたかせた。その純白の翼を。
風、と言うのだろうか。
人間では到底見ることのかなわない何かが、彼らを吹き飛ばし、地面に叩きつける。
死んではいない。文字通り吹き飛ばしただけだ。ただそれだけ。まるで殺す価値もないかというふうに。
これが、神と対なす悪魔の力。
ソフィアは撤退を始める連中を眺める。
彼女の視線は、たったひとつの影を追っていた。
車に乗り込み、大慌てで元来た道を引き返す教会連中。
ソフィアは立ち上がり、隠していたその身を晒す。
ソフィアはそのひとつの影を、捕らえて放さない。
後部座席に乗り込んだ修道女。
追う視線。
気づいた視線。
交じり合う、ふたつの視線。
車が通り過ぎる。
車の動きと共に、ソフィアの首も動く。
振り返ると、修道女は窓から顔を出し、悲痛な表情で口を開いた。
しかし、声にはならなかった。もし声をかけて、他の仲間が反射的にソフィアを撃ってしまったら。そんな悪い予感が頭をよぎり、彼女は何も出来なかった。
ソフィアはそんな彼女に向かって、小さく手を振る。
笑顔だろうか、それとも苦々しげな表情だろうか。ソフィア自身、自分がどんな表情だったのかわからない。
重なる視線が細くなり、やがて、途切れる。
もう何年、このすれ違いを続けているのだろうか。
ソフィアは見えなくなった彼女に背を向ける。
守衛のクルーガーが何やら叫んでいる。何を言っているのかわからないが、おそらく、大丈夫かとか怪我はないかといった類のことだろう。
ソフィアは、無事だという証拠に、大きく手を振って駆け出す。もちろん聖水をしっかり握り締めて。
帰ったら大目玉だろうが、それはそれで楽しい。何より、事情を説明した際にクリストファーのあきれ返った表情を見れると思うと、駆け出す足にも力が入る。
太陽も元気に顔を出している。
さあ、今日もどうしようもない日常が幕を開ける。